みちのく陸中海岸では、縄文時代前期(国指定史跡:宮古市崎山貝塚遺跡は約6000~3500年前のもの)から人々の生活の跡がうかがえ、私たちの暮らす重茂半島でも4500年前の遺跡群が発掘されている。
私たちの祖先の記録は、続日本紀に、須賀君古麻比留(すがのこまひる)なるものが霊亀元年(715年)『先祖代々コンブを献上してきたが、国府までは道が遠いので閉伊村に郡家を建てることを陸奥国に願い出た』などの記述があり、昔からコンブがこの地の代表的な生産物とされてきた。また中世から近世にかけては、赤魚の産地として、更に煎海鼠(いりこ:干しナマコ)や乾鮑(干しアワビ)などが中国貿易品の代名詞である長崎俵物の原産地として知られるようになった。
藩政時代の漁業
宮古地方は中世以来、河川や沿岸で網や釣り具を使い、小舟を操って自由に漁が行われていた。重茂では浜ごとに共同で出漁したり、水揚げした魚介類は分け合って、助け合いながら半農半漁の生活をおくっていた。
やがて南部盛岡藩が下閉伊沿岸を支配するようになってからは、領地の地頭職に漁業権が与えられ、その地頭から許可をもらって漁をすることができ、営利目的での漁業も認められるようになった。
この漁業権について、政治的支配が更に強まると地先漁業権のほかに「入会」と称する共同漁業権が定められたため、重茂半島の北部には宮古村や鍬ケ崎村から、半島南部は大沢村や山田村から船がやってくるようになり、この入会漁場での争いが再三起きていた。
明治~昭和初期・組合創立と三陸大津波
明治維新の動乱が治まり、制度改革に乗りだした明治政府は1875(明治8)年、旧藩時代から続いてきた漁業を営むうえでの権利や慣行を否認し、海面公有制や海面借区制を宣言して漁民から入漁料をとることにした。
岩手県では全国に先駆け、1873(明治6)年に漁業権の入札制度を実施していたが、落札金の不払いや名義の転貸などの弊害が生じたため、資産担保を条件に免許を与えていた。しかし新政府による漁場再編が優先されたため、県の入札制度は一時中止された。
その後も漁業に関わる権利や税制の公平性など制度の朝令暮改が繰り返されていたが、1886(明治19)年に『漁業組合準則』が制定、1902(明治35)年には、漁業法が施行されて、やっと漁業秩序の基本法が整い全国各地で漁業組合創設の機運が高まり、同年に本組合の前身である重茂浜漁業組合も誕生した。
その他この時代で特筆すべきは、1896年(明治29)6月15日の三陸大津波で当時の重茂村の人口1506人のうち半数以上の764人が犠牲となった。それから37年後の1933年(昭和8)3月3日の昭和三陸大津波でも174人が犠牲になり、2度の大津波を乗り越えている。
昭和20年代 大いなる希望を持って結束
第二次世界大戦が終結したことで、朝鮮半島で教鞭を執っていた西舘善平氏が帰郷すると、乞われて組合経営に加わり昭和22年11月29日組合長に就任した。
昭和24年2月の水産業協同組合法施行に伴い、近代漁協の設立準備を進め同年7月23日に298名(設立同意者の9割)の出席によって重茂村漁業協同組合を設立し、以後も村役場との両輪で重茂地域の行財政をけん引した。
昭和27年春には新法に基づく定置漁業権が再配分され、根滝漁場の漁協経営が開始された。当時の漁獲物はブリが9割を占め、安定した水揚げが続いたことで、同年5月には宮古市鍬ヶ崎に宮古事業所を開設し、定置網事業は漁協経営の根幹となっていく。昭和29年には漁協事務所が完成し、村役場の間借りから独立した。
また、当時の主な海産物は天然の干しわかめ、干しこんぶ、あわび(乾鮑向け)、干しするめであり、これらの共同販売に力を入れた。また、資源は豊富だが流通の難しかったキタムラサキウニの身をアワビ貝殻に盛り、焼き上げることで商品化し、冷凍することで長期保存が可能になったことから、昭和28年からは『重茂特産焼うに』として主要品目に加え、わかめ、あわびと並び重茂ブランドの代名詞となった。
組合事業以外においても、西舘善平組合長が私財を投じ、財団法人重茂教育振興会を設立して、スクールバスの運行(昭和29年11月)や学生寮の建設にもたずさわり、道路、上水道、電話など生活インフラの普及整備についても漁協が中心的役割を担った。
- 重茂村時代の役場と重茂村漁協事務所前で(昭和20年代)
- 根滝網ブリ大漁(昭和29年)
- 千鶏停留所で生徒を乗せるスクールバス
- 新築当時の漁協事務所(昭和29年2月4日)
昭和30年代 基盤整備と生産意欲の向上
日本列島は高度経済成長期にあり、漁港や道路などの整備促進について関係機関へ積極的に働きかけたことで、砂浜や小石の海岸にコンクリートの防波堤が伸びて立派な港に生まれ変わっていった。港や道路の整備と並行するように漁船の大型化や漁業機材の近代化も目覚ましく、漁業基盤の整備が急ピッチで進められた。
販売面では、生産量の大半を占めていた海藻類の干し仕立て形体を四角俵梱包に統一し、品質や等級検査も明確化したことで、漁連共販市場での評価も確立された。
また、この10年間は天候が穏やかで、採介藻類の水揚げが右肩上がりとなり、あわびは200トン超えを2度記録し、焼うには年間20~30万個、わかめ・こんぶで3000トン(生換算)以上の豊漁年が続き、天候が漁師に味方してくれた時代であった。
しかし、不安定な天然資源よりも、増繁殖事業で安定生産を図ろうとしていた組合員有志たちは、昭和33年に小型の増殖ブロックを自費製作して漁場に投入し、海藻の繁茂状況やあわび・うにの着棲に好結果が得られたことから、これが浅海増殖事業の第一歩となった。
もう一つ、外洋養殖の挑戦は荒波や潮流との闘いであったが悪戦苦闘の末、昭和38年に免許を取得した区画漁業権漁場内へ碇ブロックとロープを設置して、わかめ養殖がスタートした。その2年後、こんぶ養殖も始まったが台風や大型低気圧の通過で、たびたび施設を破壊されるなど、苦難は続いたがそれでも生産意欲が衰えることはなかった。
- 重茂漁協のマークを付し干こんぶを満載した地元カネジョー運送のトラック(昭和35年石浜集荷場)
- 重茂港(昭和30年代)
- 千鶏漁業技術研究会によるわかめ養殖試験風景(昭和37年)
昭和40年代 漁港整備に伴う事業の拡大
国内は漁船漁業が隆盛の時代にあり、待ち望んでいた漁港の拡大が実現したことで、地先でも豊漁に湧くイカ漁に本格参入するためイカ釣り漁船を建造する船主組合員が増え、遠く日本海まで出漁するなど主要漁業に成長した。このように漁船の大型化や船外機船の普及に伴い、燃油供給施設や購買店舗、信用事業の窓口も順次拡充されていった。
海藻加工事業についても、国庫補助(沿岸漁業構造改善事業)で建設を進めていたわかめ加工場が昭和40年3月に完成し、新しい施設での製品造りが開始された。
天然わかめは潮の香の素朴な干しわかめとして流通していたが、養殖わかめは柔らかい葉質を活かすため、昭和45年からボイル塩蔵品を試作製造したところ、幅広い料理への可能性から業界の評価も上々であり、しかも冷凍保存が可能であることから、それ以降の養殖わかめはボイル塩蔵が主流となった。
このことにより、ボイル加工場や冷凍保管施設の建設も急務となったが、これらに先がけ、手狭になっていた事務所の建設を進め、1973(昭和48)年に重茂小学校の跡地に3階建て(一部5階)の新事務所が完成した。
また、この時代には半島の最高峰である十二神山周辺の広葉樹林帯が伐採され始めていることを知り、海につながる清流と森林を守るため、漁協が先頭に立って伐採中止を訴えて貴重な原生林を守ることができた。1986(昭和61)年には環境省や林野庁が支援母体となっている「森林浴の森日本100選」に選ばれ、翌1987(昭和62)年には東北森林管理局による十二神山ミズメ遺伝資源希少個体群保護林として管理されている。
- 音部浜風景(昭和40年代)
- 工事の始まった音部浜
- 舘上地区に完成したわかめ加工場(昭和40年頃)
昭和50〜60年代 生産体制の充実
安定成長期に入った日本経済の後押しで、漁協施設も建設ラッシュとなり、1975(昭和50)年からボイル加工場(日産30トン)を3ヶ所へ順次建設、冷凍保管庫も300トン、700トン、1000トンと建設され、合計2000トンの冷凍保管能力を完備していった。
その他、さけ・ますふ化場、あわび・うに中間育成場、こんぶ採苗施設、ダイバーセンター、各漁港のクレーンや荷捌場、ガソリンスタンドなど補助事業を要望しながらの整備が進められた。
1983(昭和58)年の定置漁業権の更新では、これまで共同経営であった3ヶ統が単独経営となり、翌1984(昭和59)年には大型定置網4ヶ統と小型定置網1ヶ統の併せて5ヶ統の総水揚げ金額が21億2千万円を記録した。しかし、これを最高に下降線をたどることになる。
1985(昭和60年)には、この定置網で水揚げされた魚類を加工するために建設を進めていた海洋冷食工場が完成し、海藻加工場と合せて100名程度の地域雇用が生み出された。
1988(昭和63)年の区画漁業権の更新では、漁場の拡大要望が認められたことから、養殖施設の沖出し拡張を進め敷設費用は倍増となったが、近年の波浪に十分に耐えうる碇やロープに一新された。これら養殖施設の保全作業にも組合員ダイバーが活躍している。
また、漁船の近代化も進み、養殖作業船は積載能力と安全性から大型化され、ラインホーラーやウインチなどの省力化機器も漁船に装備されていった。
1985(昭和60)年は異常冷水塊の停滞によって養殖わかめの生産量が1,471トン(生換算)と大減産になり、翌年の種めかぶの確保も難しい状況であったが、漁業者の団結力が功を奏し、翌年は4,000トン(生換算)台に回復している。これ以降も台風や海水温の変動などで減産や豊作を繰り返しながらも養殖わかめ・こんぶの生産量は右肩上がりとなっていった。
- ダイバーが設置したこんぶの海中林
- 組合員ダイバー
- 重茂浜の天然こんぶ干し風景(昭和55年頃)
昭和から平成にかけて養殖漁業や環境保全の取り組みが実を結んだ時代であった。
平成前期 加工販売事業の成長
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇崩御。その1ヶ月後の平成元年2月9日に近代漁協の礎を築いた西舘善平元組合長が94歳で没し、組合葬が執り行われた。
1991(平成3)年にはバブル崩壊によって国内景気が減速し始めていたが、当組合の事業は成長を続け、1992(平成4)年には養殖わかめと養殖こんぶを合せた生産量が1万トン(生換算)を突破した。また秋鮭漁も大漁続きで、海洋冷食工場は連日フル稼働し活気に満ちあふれていた。
このため冷凍保管施設の増設を迫られ、1994(平成6)年に保管能力1500トンの第三冷蔵庫(冷凍保管施設としては4ヶ所目)を完成させ、併せて3500トンの冷凍保管能力となった。これにより地区外への委託保管がほぼ解消された。
1997(平成9)年にはクリーンパックセンターが完成し、自動計量包装機や金属探知機、風除室が完備され衛生面も向上し、製品生産効率が格段にアップした。
海藻製品の販売先は専門業者が入札参加する従来の漁連共販と生活クラブ生協が主な販路であったが、魚類加工品も含め販路開拓に努めた結果、市内の小売店から全国の卸売市場や量販店グループまで幅広く販売展開され、1993(平成5)年の加工品販売高は19億6千万円を記録した。しかし、これをピークに秋鮭加工には陰りが見えはじめていた。
この時代の大きな出来事は、1995(平成7)年1月17日に阪神淡路大震災が発生している。
- クリーンパックセンター内
- 生活クラブとの交流会(クリーンパックセンター前で)
- 音部漁港でのこんぶ作業(1998年)
平成10年~ 環境保全と新事業
バブル崩壊後の平成10(1998)年代は日本長期信用銀行の経営破綻をはじめ大型倒産が続き、失業率は過去最悪で日本経済は戦後最低の状態に陥っていた。
県下の漁業はカキ・ホタテ・海藻養殖漁業は安定していたが、採介藻漁業が減少傾向、定置網漁業は秋鮭の水揚げが下降線をたどり、一時は大漁に湧いた鮭延縄漁業も衰退していった。
この要因は海水温の上昇によって、鮭の生息域が北洋に狭まり、なおかつ鮭の稚魚を捕食するサバやショッコの北上が早まったことも原因とされている。
2003(平成15)年には、あわび種苗生産施設が完成した。これは岩手県栽培漁業協会によるアワビ種苗生産事業(昭和54年から開始)をバックアップするとともに自らの生産努力によって資源回復を目指したもので、翌2004(平成16)年から地場採卵による中間育成貝100万個の放流を開始した。
経済事業のほかに環境保全活動にも取り組んだ時代である。
1998(平成10)年 | 共済事業の長期共済保有高100億円突破記念・海難遺児チャリティーみなとまちコンサートを重茂漁港で開催 |
---|---|
1999(平成11)年 | 信用事業の組合員貯蓄残高が40億円に到達 |
1999(平成11)年 | 販売事業の年間受託販売高24億8千万円を記録 |
2000(平成12)年 | 重茂中学校体育館において重茂漁協創立50周年記念式典を盛大に挙行し、記念誌を発行(但し、昭和24年の漁業協同組合法施行から50年) |
2002(平成14)年 | アルミ軽合金製の定置網漁船 第二根滝丸が進水 |
2003(平成15)年 | 重茂漁港の臨港へあわび種苗生産施設が完成 |
2003(平成15)年 | 信用事業を岩手県信用漁業協同組合連合会へ譲渡(岩手県内の漁協信用事業が一つに統合された) |
2006(平成18)年 | 環境保護活動の行動指針とする『未来につなぐ美しい海計画』が岩手県知事の認定を受ける |
2006(平成18)年 | 第1回 重茂味まつりを開催(震災年及び2020年、2021年はコロナ禍のため中止) |
2007(平成19)年 | 「核燃料再処理工場稼働反対集会」(青森市へ75名)参加、翌2008年の東京集会は50名参加し、署名活動も生活クラブ連合会と連携して行った |
2010(平成22)年 | 『シャボン玉フォーラムinおもえ』が開催された。(次世代にきれいな水と豊かな自然環境を残す活動で全国せっけん運動ネットワーク主催、毎年1回全国各地で開催) |
- 漁協の共済保有高100億円突破記念、鳥羽一郎海難遺児チャリティー漁港コンサートを重茂港で開催(平成10年)
- 東京駅周辺をデモ行進
- 2010シャボン玉フォーラムin重茂
平成20年〜 東日本大震災発生(平成23年)
2008(平成20)年6月に岩手・宮城内陸地震発生。翌7月にも岩手県沿岸北部地震で震度6強を観測し、重茂地区でも住宅の壁など一部損壊が多発した。
また、台風や低気圧が強い勢力のまま東北地方も襲うようになり、2009(平成21)年10月の台風18号、そして翌2010(平成22)年は大晦日から元旦にかけて猛烈な暴風雪に見舞われ、停電と交通網の遮断、海上は大シケとなり養殖施設に大きな被害を被った。
その3ヶ月後、養殖施設の補修が終わり減産が決定的ながらも、わかめの収穫が始まっていた2011(平成23)年3月11日の午後、地響きとともに経験したことのない強く長い揺れ、それから30分足らずで、千年に一度と云われる大津波は襲来した。
死者行方不明者 | 50名 |
---|---|
負傷者 | 15名 |
住宅の全壊 | 88棟 |
漁業倉庫や加工場の全壊 | 355棟 |
漁船の流失・損壊 | 798隻(所属船814隻中) |
施設の損壊 | 10の漁港施設、養殖施設、各事業施設(定置・加工・種苗生産・利用・さけますふ化など)が壊滅的な被害を被る |
- 被災した重茂港
- 自衛隊による支援物資の搬入
- 漁協本所3階大会議室で開催された組合員全員協議会(平成23年4月9日)
2011(平成23).3.11 大津波襲来
3月11日午後2時46分頃、突然の大きな揺れに驚き、漁協では皆屋外に飛び出す。揺れがおさまるやいなや消防団に所属する職員は緊急出動。宮古市の防災無線がサイレンとともに「大津波警報」を告げ、里の集落からは高台への住民避難が始まっていた。海を見渡せる高台には漁業者が集まり、整然と並んでいたはずの養殖施設が大きな渦に巻き込まれるのを皆呆然として眺めていた。
ラジオや携帯電話の情報から広範囲に大津波が襲来し未曾有の災害であることは判った。しかし、全域停電のため通信網が途絶え、地区内唯一の幹線道路が橋の流失などで寸断されたため、本所の留守をあずかった職員は漁協管内の状況把握が進まないまま、まんじりともせずに寂しい一夜を過ごした。
夕闇がせまるころ、各地区では被災者が高台の集会所や親戚宅などに身を寄せ、炊き出しをしたり避難生活が始まっていた。
翌朝、人的被害の大きかった千鶏・石浜地区では、怪我人の介抱や行方不明者の捜索が懸命に続けられていた。偶然、ここで立ち往生した路線バスの無線機が、怪我人を運ぶため自衛隊ヘリの救助要請など災害本部への唯一の連絡手段として活躍した。
行方不明者のいる地区では、しばらくの間、消防団や親族などでガレキの中や土砂の下、海上まで範囲を広げて捜索を続けたが、半数近くの方はどうしても発見することができなかった。
今回の大津波で最高到達点 海抜40.5メートルを記録した姉吉地区にある 苔むした碑には こう記されている。
- 大津浪記念碑(姉吉)
大震災のあとも全国各地で自然災害が多発しています。
2019(令和元)年10月の台風19号は東日本を中心に大きな豪雨災害となり、当地域も住宅や道路、水道などの生活インフラに大きな被害が発生して、再び自衛隊の方々のお世話になり、皆様からご支援をいただき感謝申し上げます。
2021(令和3)年1月には宮古市から業務委託を受けた宮古市重茂水産体験交流館『えんやぁどっと』が開館しました。水産加工体験(予約制)ができるほか、お土産品コーナーと食堂を備えています。天然わかめラーメンや天然わかめの粉末をふりかけたソフトクリームが大人気です。
コロナ感染対策もしっかり行っていますので、どうぞおいでください。
私たち重茂漁協は、美しい自然を守りながら安全で美味しい海産物を全国の食卓へお届けしてまいります。