重茂漁協の歩み

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重茂漁協のあけぼの

 我がふるさと重茂半島は、岩手県の東部、陸中海岸の中央部に位置し、北は宮古湾、東は太平洋、南は山田湾に接している。
 半島は岬と湾が連続し、いわゆるリアス式海岸を形成し、沖合いは暖流寒流が交差し、魚族も豊富で世界三大漁場のひとつとして知られている。また十二神山、月山を中心とした地勢が内陸との交流を遮断し原生林、自然林の残存が多く保護地域となってきた。このことは半島を取り巻く魚礁に栄養分豊かなイオン水を供給する形をつくり、良質の海藻や魚介類が生育できる要因となってきた。
 このような資源豊富な自然環境の地に、いつの頃からか先住民族が住み着き、漁業中心の生活を営み始めたと思われる。「続日本紀」に、須賀君古麻比留なるものが霊亀元年(715)「先祖代々コンブを献上してきたが、国府までは道が遠いので閉伊村に郡家を建てることを願い出た」云々の記録があることから、かなりの昔からコンブがこの地の代表的な産物として生産されてきたことがわかる。また、中世から近世にかけては赤魚の産地、対中貿易品であるイリコ(海参)アワビなど長崎俵物の生産地として全国に知られるようになった。

藩政時代の漁業

 宮古地方は、中世以来、漁民は自由に河川や海岸の地先水面での漁業を営み、小舟を操って、網や釣り具での漁労ができ「沖は入会」「国境無差別」といって共同で使用していた。南部盛岡藩が閉伊海岸の支配権を持つようになってから、地頭が漁業権を認められ、村民に入会を許した地先漁業権は個人の営利の目的でも認められるようになった。
 これが一般の漁業形態であり、地先所有の考えが強くなると、地先は行政区によって所有が主張され、共同漁場や専有漁場などと、政治的支配が決められるようになって、部落入会漁業権の地先の漁業権が認められた。例えば重茂村は宮古湾と山田湾の間にあって、昔から地先海岸に、生活の資である魚介藻を採捕する権利を持っていた。然し、北は宮古、鍬ヶ崎両村、南は山田、大沢部落との共同漁場でもあった。
 これ故、この入会漁場での抗争は再三起きている。音部地区では漁船が少なかったこともあり、コンブ、わかめ、鮑など部落共有の船で採捕し、生産物はひとまとめにした上で、部落民に分割し、平等に消費する共同経営体的な漁場利用がおこなわれていた。

明治はじめの漁業法の変遷

 明治8年、明治政府は旧藩時代の漁業上の権利や慣行を否認して海面公有制・海面借区制を宣言、漁民から河岸の使用料をとることにした。
 明治6年からは漁業権の入札制を実施。
 しかし全国に先駆けて実施した制度、入札制も、落札になっても入札金の不払いや、自分名義で落札したものを他人に転貸するなど弊害が生じてきたので、県は入札制度を厳重にし、資産の保障のあるもののみに落札免許を与えることにした。さらに明治8年、新政府により漁場の再編成が進められたこともあり、明治9年、従来の入札制は一時中止されることになった。
 明治19年「漁業組合規約基準」が公布、明治35年7月には、先の漁業組合規約基準をもとにわが国最初の漁業法を実施、公布により全国的に組合組織の機運が高まった。

現組合設立までの経緯

 明治35年10月18日、重茂浜漁業組合設立、翌年36年6月には音部浜漁業組合が設立された。大正3年1月1日、重茂浜と音部浜が合併して重茂村漁業組合を設立。
 その後、昭和12年、重茂漁業協同組合に名称変更、昭和19年に重茂村漁業会設立。戦後、昭和24年7月23日には重茂村漁業協同組合設立、昭和30年6月13日に宮古市との市町村合併により重茂漁業協同組合に名称変更し現在に至っている。
 戦後占領下から復興期の重要な時期、新法に基づく近代漁協の初代組合長には西館善平氏が就任(昭和22年11月29日〜昭和49年9月5日)する。

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