重茂漁協の歩み

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平成時代の幕開け、東日本大震災を乗り越えて

戦後の復興期とともに産声をあげ、重茂の繁栄を支えて来た重茂漁協。
昭和から平成へかけては、養殖漁業や環境に対する
長年の取り組みが実を結んだ時代となった。
その繁栄を覆したのが、あの東日本大震災。
だが人々はいち早く立ち上がり、誰よりも果敢に復興への道程を歩み始めている。

漁業施設の整備が進展、安定的生産の基盤が図られた

 昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御、翌1月8日に年号が平成へと改まった。またこの年の2月に初代組合長の西舘善平氏が94歳で没し、漁協葬が行われた。西舘氏の遺した「天恵戒驕」の精神を胸に、重茂漁協は新しい時代へと踏み出したのである。
 平成に入ってからのおよそ10年間は、安定的漁業生産と組合員の生活基盤の整備、それに伴う漁家生活の安定と向上が図られた時代であった。施設関係ではクレーンの各漁港への設置をはじめ平成4年には宿漁港および重茂漁港上屋を、翌5年には冷凍工場敷地内へ1500トンの第3冷蔵庫を、さらに平成8年にはクリーンパックセンター、平成10年には与奈漁舎が国の補助事業により設置されていった。
 この間の定置経営は、平成7年の不漁はあったものの総体的には安定的水揚となった。ただし輸入増や経済不況のあおりを受けて魚価は伸び悩み、特に平成8年の大漁時には1キロ当たり147円という大暴落がおきた。生産販売事業では、平成元年の19億円から増減を繰り返しつつも平成10年には23億円の水揚を達成。あわびは50トンほどの水揚があり、ウニとともに資源回復への兆しが見られた。ほか信用事業や加工事業も順調に推移し、自己資本の増加へと貢献。組合員の出資金も5億4千万円を越え、水揚不振や寄附金により赤字を計上した平成7年以降は事業成果と経費削減が功を奏し、出資および利用配当はもちろん準備金や積立金も出来る状態となり、財政基盤はより強固になった。

漁業は「つくり育てる」時代へ、秋鮭漁の不振がより顕著に

 平成10年代に入ると、養殖漁業の安定化が実現した。昭和39年にそれまで外洋では不可能といわれていたワカメ・コンブの養殖事業に着手、まさに「時化との戦い」というべき試行錯誤の連続を経て、重茂漁協の主力産業にまで成長したのである。
 しかし年を追うごとに深刻化する地球温暖化の影響は当地の気象へもおよび、特に養殖漁業者にとっては水温上昇や気象の急変を敏感に捉えて対応せねばならず、以前にも増して技術の研鑽が求められる時代となった。なかでも「種苗つくり」においては日々の水温や水深を調べてきめ細かに調整する等、漁業者の経験値や工夫が最大限に発揮されている。そういった日々の地道な努力によりワカメ・コンブの養殖漁業は安定した生産が実現でき、生産量においても単協として県下トップの実績を誇っている。
 昭和の後半から減少の一途を辿っていたあわびの水揚は、平成に入り10トン台を保つばかりとなっていた。関係者からも資源管理漁業の推進が強く求められるようになり、平成13年・14年の2ヶ年、国の補助事業を導入して「あわび種苗生産施設」を建設。100万個のあわび稚貝生産体制を整え、本格的な「つくり」「育てる」漁業時代の幕開けを迎えた。
 漁協経営において重要な役割を担っていた自営定置網漁業では、主要魚種である秋鮭の水揚減少が深刻化。昭和50年代には岩手県下で5万〜7万トンの水揚があったが、平成に入って回帰率の低迷とともに急激に減少、平成20年には2万トンにまで落ち込んだ。定置依存度の高い当漁協にとって、経営は一層厳しさを増している。
 そのような状況下、平成22年12月22日・23日と年末年始(12月30日~平成23年1月1日)の2度に渡り、岩手県内は暴風雨と大雪に見舞われた。被害額52億7558万円(平成23年1月7日/岩手県総合防災室まとめ)のほとんどは農林水産関係であり、特に養殖ワカメやホタテ貝、漁船の転覆などの水産被害は約33億5千万と甚大であった。当漁協でも養殖施設が壊滅的な被害を被ったが、1月中旬から始まるワカメ作業に向けて急ピッチで復旧工事が進められた。
 そして収穫体制がようやく整った平成23年3月11日、東日本大震災が発生したのである。

23年3月11日、東日本大震災発生直後から再開への試みが始まった

 東日本大震災は、重茂の漁業に壊滅的な被害を与えた。
重茂漁協管内の死者・行方不明者は50名、負傷者15名にのぼる。組合員403世帯のうち88世帯の家屋が流出したほか、半壊1世帯・床上浸水2世帯で、合わせて91世帯が被災した。倉庫の全壊は355棟・半壊6棟・床上浸水10棟となった。漁協に所属する漁船は814隻のうち798隻が流出し、10カ所の漁港施設、そして1310台(41万メートル)の養殖施設も全壊。あわびセンターや加工場、ふ化場などおよそ50施設の被害額だけでも42億円にのぼった。さらに半島に通じる道が寸断されたほか、停電や通信網の不通がしばらく続き、ケガ人を病院に搬送できないなど悲惨な状況が続いたのである。
 そんななか、漁協では震災から僅か3日後の3月14日には対策本部(当初は対策会議)を設置、漁業の再開を第一目標に行動することが決定された。基本となったのは、以下の4点である。
1、漁業の再開を早急に行えるよう取り組む。
2、漁業再開にあたって、漁船や養殖施設の整備など基本的部分において、組合員には当面、借金はさせない。必要な資金は漁協が借金をしてでも対応する。
3、そのことによって漁船保険金、養殖施設共済金や、漁獲共済金を当面の生活費に充てることができる。さらに市や県に対して緊急雇用対策について要望する。
4、当面、漁は共同方式をとり、水揚は公平に配分することを同年4月9日開催の全員協議会で示し賛同を得る。
 漁業再開には漁船が欠かせない。そこで震災直後から役員や組合員が奔走、津波被害のなかった日本海側での中古船の買い付けや流された漁船の回収修理を行った。そして5月の天然わかめ漁までに70隻を確保、漁の再開にこぎつけたのである。その後もウニ漁や天然こんぶ漁が再開され、11月〜12月のあわび漁では2世帯で1隻に乗り組んで漁を行った。
 漁協の財政基盤といえる定置網漁業の再開も緊急の課題であった。だが当時、定置は休漁時期だったため、20隻の定置船は宮古・山田・釜石の3カ所の造船所に上架中、沖に避難することも出来ずにすべて流出してしまった。それでも乗組員は沿岸各地を調査して漂着していた10隻を発見、また自営する大型定置4ヶ統の網のうち1代わり分が、津波対策として前年から高台に保管されていたことも幸いした。これにより同年7月には定置網漁が再開され、震災時でも僅かではあったが事業利益を計上することが出来たのである。

施設復旧、漁業資源の再生、震災後の“正念場”はこれからだ

 東日本震災以降、漁協では約50件におよぶ被災施設について補助事業を活用しながら復旧に取り組んできた。平成25年度現在、加工場や養殖場など施設の復旧率は約8割。しかし震災以降顕著になってきた作業員や機材のひっ迫が工事に支障をきたし、補助事業の期間内に工事の完成をみることが厳しい状況となっている。
 それとともに復旧事業費の負担も重くのしかかる。管内の施設復旧などに係る事業費は約130億円となっており、うち1割は自己負担が原則。さらに漁協単独の事業も合わせると必要な資金は17億円にものぼるのである。これについては信漁連からの漁協経営再建緊急支援資金の借入で対応したが、平成26年度からは15年の償還期間が始まる。また、新施設の整備にともなう固定資産税の徴収も、特別免除期間が終了する5年後からは多額の課税が発生することになる。
 これらに対応するためには、水揚高を震災前の水準に回復させることがなによりも重要になるが、平成25年現在の水揚高は震災前のおよそ7割程度。ウニやアワビの資源復活も最低4年はかかると見込まれているほか、秋鮭漁に関しては平成23年度の稚魚放流は岩手県下で66パーセントにとどまった。以降、平成24年度も73パーセント、翌25年度はようやく90パーセントを達成したが、近年の回帰率の低迷を考えれば最低3年間は厳しい状況が続くと予想されている。
 漁協では、今回の津波被災特別損失を7億9千万円計上したが、それでもなお約10億もの純資産が残っている。今後の収益状況によっては、この資産の取り崩しも考えながらの綱渡り的な経営を強いられることになるだろう。しかし震災直後、伊藤隆一組合長を中心に、どこよりも早く漁業再開へと動き出した経験が、重茂漁協の大きな誇りとなっている。
 漁業完全復興への道筋は険しい。しかし重茂の誇り、そして勇気と決断を胸に、我々は歩んでいかねばならない。

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